大阪高等裁判所 平成2年(行コ)8号 判決 1991年3月22日
控訴人
桂田朝子
右訴訟代理人弁護士
須田政勝
同
高橋典明
被控訴人
大阪中央労働基準監督署長鈴木壽
右訴訟代理人弁護士
小澤義彦
被控訴人指定代理人
杉浦三智夫
同
佐々木達夫
同
中嶋康雄
同
加藤久光
同
山本勝博
同
奥田勝儀
同
若尾貞夫
右当事者間の頭書控訴事件につき、当裁判所は、次のとおり判決する。
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は、控訴人の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決を取消す。
2 被控訴人が昭和五七年四月二一日付で亡桂田定男に対してなした休業補償給付の不支給決定を取消す。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
主文同旨
第二当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり付加するほかは、原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。
一 控訴人の主張
1 定男の脳内出血発症は、基礎疾病たる高血圧症と同人の従事した業務とが共働原因となったものであるが、右基礎疾病たる高血圧症もまた定男の業務によって発症したものであるから、同人の脳内出血症は、業務による高血圧発症とその後の業務による高血圧症の自然的増悪の程度を超える急激な増悪の結果生じたものといえるのであり、結局、本件の脳内出血発症は、業務に起因するものといえる。
2 労働科学研究所の斉藤一所長の「労働科学」五六巻一一号(昭和五五年)から明らかなように、業務による精神緊張の増加は血液コレステロールの増加、最小(拡張期)血圧上昇、血液凝固促進という症状を引起し、遠距離通勤や長時間勤務がその症状を増悪させることは明らかといえる。
一般に高血圧の原因とされる要素として、アルコール、肥満、年令、塩分の過剰摂取等があげられているが、定男は酒、煙草の嗜好癖もそれほど強くなく、肥満や塩分の過剰摂取の事実もないのであるから、昭和五五年以後の急激な血圧の上昇を招いた原因としては、その従事した業務以外に考えられない。
3 基礎疾病たる高血圧症
(一) 定男の血圧の推移
定男の社内検診における血圧の推移は次のとおりである。
昭和五〇年六月一六日 一四八~八四
昭和五一年二月二日 一四〇~八八
昭和五一年六月二日 一三四~八三
昭和五一年一二月三日 一一六~八六
昭和五二年六月二日 一二七~八七
昭和五三年四月一二日 一四〇~八八
昭和五五年四月二三日 一五二~一〇四
昭和五五年一〇月七日 一五五~一〇五
定男は昭和五四年の社内検診定期健康診断を受けていないが、たまたま同年五月一日に血圧の測定を受けたうえ、日本生命と生命保険契約を締結していることは、血圧に全く異常がなかったことを示している。
以上によると、定男の血圧は昭和五四年までは正常域にあり、大阪支店営業第五部長就任後の昭和五五年から上昇したことが認められるところ、収縮期血圧は境界域に止まり、拡張期血圧は高血圧の領域に入っている。
しかしながら、高血圧の程度は軽度で治療の必要性もない程であったし、定男は昭和二七年の入社以来病気で欠勤したことはなかった。
(二) 血圧上昇の原因
血圧上昇の原因としては、大阪支店勤務となり、通勤時間が長くなったことと、部長職の責任の重大性に伴うストレスが大きく作用した結果によるものと考えられる。
まず、第一の通勤時間であるが、昭和二七年の入社以来昭和五三年までは片道約四五分(午前八時一五分頃自宅を出る。)ですんでいたのが、大阪支店勤務になってからは片道一時間半強(個人的に時差勤務していたため午前六時四〇分自宅を出る。)となった。
第二に部長に昇進し、その結果重大な職責を負うことになり、かつまた、勤務時間もそれに伴い長くなったことにより、ストレス要因が著しく増大した。
定男は昭和五三年四月販売第五部の部長となり、翌五四年四月には仕入れと販売を一貫して行うための社内の組織変更に伴い営業第五部長となったもので、営業第五部には東京勤務の者も含め、課長四人、部員一一名余がいた。
部長は部の最高責任者として売上の伸長、部内の融和等直接の責任を負う地位にあり、また、当時の経済界全般が不況といった時期に遭遇し、成績が上がらないと直ちに降格される状況のもとで、強いプレッシャーを受け留めながら、部長職をこなしていた。
部下の者は、課長以下、一応自己の仕事が一段落すれば帰宅の途につけるが、「概ね部長は部下の仕事を見届けて」から退社しており、かなり残業していたことを考えると、勤務日の半分くらいは帰宅が一〇時、一一時と遅くなることもざらであったようである。
(三) 以上のとおり、通勤時間及び勤務時間の増大と部長職という要職にあって職責を全うしなければならないことが、定男の血圧を上昇せしめたと考える以外、他に血圧上昇原因が存しない。
4 脳内出血の発症と業務起因性
(一) 北陸出張について
定男は部下の二木康英と共に昭和五五年一二月一〇日から一二日まで、冬物現物と夏物先物の販売、更に新規取引先の拡張や部長としての挨拶などの目的で北陸に出張した。
右出張は、一個の重さが約一二~一五キログラムの現物見本の入ったトランクを二個持って、得意先へ汽車、タクシー、徒歩等で訪問し、商談を進めていくものであったが、一般に部長の出張は殆ど荷物を持たないか、仮に持つとしても部下に持たせるか、せいぜい一個を持つ程度で、定男にとって今回のような出張は常態ではなく、帰宅後「出張時は大きな出張鞄を2ケ手で持って移動したので、肉体的に大変疲れた」と報告したことからみても定男は初めて重い手荷物二個を持ち歩いたと推認される。
日常の仕事では殆ど汗をかくような仕事をしていなかった定男にとって、前記の発症直前の北陸出張は、これまでに経験したことのない過酷な出張であって、これにより心身共に大変疲労していたといえる。
(二) 出張に続く展示会の開催並びに季節的仕事の多忙性
定男は、北陸出張と展示会開催という両者を連続して経験したのであるから、この連続した仕事が常態であったかどうかを検討する。
北陸出張から帰って三日後の一二月一五日から社内の展示場において夏物展示会が開かれた。これは年六回開かれる展示会の中で、売上規模からみて三月開催の秋物展示会に次ぐものであり、昭和五五年度の売上が一二月までで四月度を除きいずれの月も目標を下回っていたこと、冬物の在庫を抱えて売上向上に腐心していたことから、定男は相当の精神的負担を受けていた。
この展示会開催中は商談が平常の二倍程度に増え、昼食も一〇分程度で済ませるといったもので、建前の一時間の休憩は取れないし、立ち歩きの対応が多くて日頃より相当疲れていたようであり、商談は概ね就業時間内に終わるものの、その後午後九時頃まで納品準備や商品整理等のため残業するのが普通で、帰宅は午後一〇時から一一時頃になるのが常であった。
さらに、部長の仕事の季節的な特徴として、ただでさえ一二月は年末で多忙を極めるのに、決算期が三月であることから部の次年度の予算編成や人事構想等他の月にはみられない仕事をしなくてはならず、これらの作業を自宅にまで持ち帰り、妻の助力も得て夜中まで仕事をしていた。
(三) 業務起因性
以上のとおり、出張で疲労困憊し、肉体的に強度の負担を背負った上での展示会の開催であり、そのうえに季節的な仕事からくる繁忙さがあったもので、一二月という時期が平常月とは異なる業務量の多い月であったこと、冬物の在庫を抱え、売上目標が達成されていなかったこと及び前記の諸事情を総合すれば、定男には本症発症直前に質的、量的に過激な業務に就労したことにより強度の肉体的、精神的負担が加わり、それが引き金となって本症が惹起されたものと考えるのが相当である。
二 被控訴人の反論
1 斉藤一氏の論文について
右論文において、いわゆる高密度精神緊張作業のモデルとして採用されているのは、<1>長時間に及ぶ数字の加算作業、<2>毎時一〇〇キロメートルの自動車高速運転、<3>航空管制における情報処理作業、<4>新幹線鉄道運転、<5>テレックス・オペレーター等であり、近年における産業の機械化、システム化に伴う労働のスピード化、高密度化の傾向を色濃く受けた作業であり、衣料品の卸売を業とする会社の営業部長といった昔ながらの職種とはかなり異質の職種に属することが明らかである。
したがって、定男がいわゆる高密度精神緊張作業に従事していたとは到底いえないし、また、管理職のサラリーマンが一般的に受けるであろう精神的なストレスを超える強度のストレスにさらされていたとも到底考えられない。
なお、斉藤論文においても明らかなように、血圧の上昇傾向は管理職よりも事務職に顕著にみられるのであって、このことが(管理職ではなく)事務職における高密度精神緊張作業の増加を示唆するものとして捕らえられていることに留意すべきである。
2 通勤時間及び部長昇進について
(一) 大都市圏における通勤時間として、片道一時間半程度は珍しいものではなく、それによって疲労が蓄積したり睡眠時間に影響を及ぼしたとは考えられない。
(二) 部長昇進の点であるが、<1>定男は段階を追って昇進し、部長になったこと、<2>部長代理を部長職に含めると昭和五一年四月以降部長職にあること、<3>部長昇進がストレスの原因になり血圧の上昇をもたらしたとすれば、部長昇進後早い時期に異常が起こり得るはずであるが、部長代理に昇進した昭和五一、二年はもちろんのこと、販売第五部長に昇進した昭和五三年及び販売第五部長となった翌五四年においても血圧値は正常であったこと、<4>取扱品目、取扱量が減少していることからすると、仕入業務が加わったとしても販売第五部長から営業第五部長に変わったことにより仕事が増大したとは考えられないこと、<5>部下の数も課長を含め一五、六名で、部としてはこじんまりした部であり、それだけに比較的管理もしやすかったと思われること(ちなみに、営業第一部や第四部の職員数はそれぞれ四〇名である)などからすると、部長昇進によりストレスが著しく増大したとは考えられない。
(三) 帰宅時間は、定男自身の陳述書に「大体は八時半頃に帰宅していました。」とあり、控訴人が定男に代わって医師に述べ、カルテに記載されている帰宅時間が午後八時であることからみて、部長が一番遅く退出する部下と同時あるいはそれより遅く退社するのではない。
(四) 控訴人は、定男が酒、煙草の嗜好癖も強くなく、肥満や塩分の過剰摂取の事実もなかったと述べ、そのことをもって直ちに定男の高血圧症は業務に起因するものと結論づけているが、元来本態性高血圧症は原因不明の疾病であって、遺伝的要素や加齢その他諸々の要素が考えられているのであるから、仮に酒、煙草や塩分摂取等に問題がなかったとしても、それだけから業務起因性をいうのは余りにも短絡に過ぎて失当である。
3 北陸出張について
まず、定男が携帯したトランクの重さについてであるが、二個とも約一五キロであったことを裏付ける的確な証拠はない。
そして、右のトランクは出張先へ直送し、帰りは会社宛に送り返すこと、キャスター付であるから、持ち運ぶのは階段を昇り降りするときであること、見本を入れたトランクを提げて地方回りをすることは、定男が若いときから何十年にわたり繰り返し行ってきたことであろうことから、「これまでに経験したことのない過酷な出張」などとはいえないし、仮に多少の疲労があったとしても、出張明けの一三、一四日は連休であったから、休養により疲労は回復したはずである。
4 展示会の開催等について
まず、売上目標の達成度の点であるが、もともと目標というものは高めに設定するものであるから、達成できないのが普通であり、本件では目標達成率こそを問題にすべきである。そこで、前年の昭和五四年度と昭和五五年度を比べると、達成率は八八・六%から九一・六%と三ポイントも上昇しているし、これを昭和五五年四月から一二月までの期間に限ってみると、九四・五%と更に上昇するから、定男には少なくとも売上高の点において精神的負担があったとは解せられない。
次に展示会開催中の一二月一五日から一八日までの四日間の退社時刻を、部下の誰よりも遅く退社したことを前提に午後八時半ないし九時頃と推定しているが、その前提が誤っていることは前述したとおりである。
更に、北陸出張と展示会との間に二日の連休が介在しているのであるから、両者を切り離して考える方が相当である。
第三証拠(略)
理由
一 控訴人の亡夫定男は訴外会社大阪支店の営業第五部長であったが、昭和五五年一二月一九日以後就業できなくなったこと、定男の労災保険の休業補償給付の請求に対し、被控訴人は昭和五七年四月二一日付で右給付を支給しない旨の決定をしたこと、そこで定男は大阪労働者災害補償保険審査官に右処分の取消しを求めたが、同年八月四日死亡し、控訴人がその地位を継承したところ、同審査官は同六〇年三月二日付でこれを棄却したこと、控訴人は労働保険審査会に再審査を請求したが、同審査会は同六二年六月二五日付でこれを棄却したこと、以上の事実は当事者間に争いがなく、定男が勤務中に脳内出血を起こしたと認定できることは、原判決理由一(原判決九枚目表六行目から末行まで)(本誌五五六号<以下同じ>34頁4段11行目から同16行目まで)と同一であるから、これを引用する。
二 本件の争点は、本症が業務に起因して発症したかどうかであるところ、<1>発症当日の定男の行動及びその後の経過、<2>本症の原因、<3>定男の従事していた日常業務、北陸出張及び展示会の内容、についての判断は、原判決理由二1ないし3(原判決九枚目裏三行目から一四枚目裏九行目まで(34頁4段21行目から36頁2段11行目まで)と同一であるので、これを引用する。
以上認定の事実によれば、定男は部長としてそれなりの精神的緊張を伴う業務に就いていたことは認められるが、残業時間(大体七時頃まで)や通勤時間、更に概ね順調であった営業成績からみて、一般の管理職に比べ日常的に特に過激な業務に従事していたとは認められない。
また、北陸出張については、トランクを提げての移動は短距離であり、それほど肉体的疲労を伴うとは認められないことに加え、展示会までには二日間の休養期間があったこと、展示会開催中は残業が九時頃までになっていたとしても、衣料の卸売という業務内容からして展示会は(そして出張も)日常業務の色彩が強いことからみて、これら北陸出張とそれに続く展示会開催をもっては、いまだ過度の長時間にわたる精神的肉体的緊張を伴ったり、過激な業務であったというには足りないといわざるをえない。
三 右のとおり、定男の従事していた業務が有力な原因となって、既存の高血圧症が自然的増悪の程度をこえて著しく増悪し、本症発症に至ったとは認められないから、これと結論を同じくする原判決は相当である。(なお、業務起因性を肯定する高橋医師の「医師意見書」に対する判断は原判決一六枚目表九行目から一二行目まで(36頁4段4行目から同8行目まで)と同一であるから、これを引用する。)
よって、本件控訴を棄却し、控訴費用の負担につき民訴法八九条、九五条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 石田眞 裁判官 福永政彦 裁判官 古川行男)